2023年11月26日(日)にTOHOシネマズ新宿(ゴジラの聖地ともいうべき劇場)で鑑賞しました。
IMAXレーザーで鑑賞したので、鮮やかな色味で奥行き感が出て高い没入感で大迫力の鑑賞でした。
やっぱり、劇場での鑑賞はいいですね~♪
※注意:この記事にはネタバレが多分に含まれています。作品をご覧になっていない方にはオススメできません。
2023年公開の山崎貴監督作品。
神木隆之介、浜辺美波、佐々木蔵之介、吉岡秀隆、青木崇高、山田裕貴、安藤サクラ、らが出演。
ゴジラ70周年記念作品であり、シリーズ30作品目。
11月3日公開というのも、「ゴジラ(1954)」の公開日に合わせてという事。
戦後、無になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を 負 に叩き落す。 史上最も絶望的な状況での襲来に、誰が?そしてどうやって?日本は立ち向かうのか―。
Filmarksより引用
「この映画すげぇ!」が感想です。
絶望を感じざるを得ない圧倒的で巨大なゴジラ。
戦後の人々を描いた人間ドラマ、それも重すぎずに今の若い世代に受け入れられやすいように描かれている。
とにかく、「すげぇ!」でした。
それが証拠にほぼ感情が磨滅してしまったと思っていて、感動して泣くなんてことがほとんどない日々をもう何年も過ごしている自分がとめどなく涙が溢れてくるのを止める事が出来なかったんです。
頭の芯は冷静なのに、泣いている自分がそこにいて、なぜ泣いているのか理解できないまま、でも嫌な感じがしないままラストまで鑑賞しました。
そして、続編が出来そうなラストと、スタッフロールラストで近づいてくるゴジラの足音と、最後の咆哮に恐怖と共に「自分も戦うぞ」という元気をもらいつつ、続編を期待したい自分がそこにいました。
そして、考えるにいわゆる「ライト層の取り込み」に絶対的に成功していると思います。
他の作品を観てなくても、このゴジラ見れば、ゴジラってどんな怪獣なのか?どれほど怖いのか、非核や反戦のメッセージが含まれている事が、キッチリ理解できる作品になっています。
とりあえず、「このゴジラ見なよ!」っておすすめ出来る作品だと思います。
ゴジラ・ザ・ライド を意識した映像にもなっていますので、映画館にもよりますが4DXでの鑑賞はすごくよいのではないでしょうか。
どうやら、ラストシーンの謎に関して「ニオイ」に重要な意味があるようなのです。
そして、すごいのは「ハリウッド」で受けるべく練られた物語と感じます。
2023年11月現在、自分としては2024年にかけて「ゴジラ-1.0」は世界公開され、恐らく世界的なヒットにつながるのではないかと思っています。
それが証拠に「ゴジラ-1.0」のアメリカでの座席予約状況がすでに6~8割となっているのだそう。
「イッケー--ゴジラ-1.0!!!!」と思っています。
ゴジラに噛みつかれ、投飛ばされる人々、ゴジラに踏みつぶされてしまう人々、破壊に巻き込まれる人々などなど、ショッキングな映像がけっこうあります。
これはゴジラ作品としては非常に珍しいことです。
実は「ゴジラ」は基本的に血を見せない、直接的に人の死を描かないというのが、徹底されていました。
本作におきましては、かなり直接的な表現にチャレンジしています。
しかし、ギリギリ直接の死は描いていません。
噛みつかれ投飛ばされても、飛んでる間は動いています。そしてたたきつけられるところは描かれていません。
銀座の大破壊の時もゴジラに踏みつぶされる一瞬前まででカットが切り替わり直接踏みつぶされたところは映っていません。
瓦礫や地割れなどに巻き込まれる人々も、砂ぼこりなどで直接つぶされたり、地割れに落ちていくところなどは描かれていません。
しかし、この直前まで描く手法で生々しさと緊張感がえぐい程高まっています。
小笠原諸島にある架空の島。島民たちは漁などで生活を営んでいます。
「ゴジラ-1.0」ではゼロ戦の補修基地が設置されている島として冒頭に登場します。
大戸島には巨大な怪物もしくは神獣の伝説が伝えられていて、毎年処女を生贄に海に捧げていたのだそう。
ゴジラは本土に品川から上陸します。
いろんなゴジラ作品でのゴジラの習性に、「人間の数が多い場所を目指す」というのがあるみたい。
銀座を破壊してしまいます。
列車を食いちぎり、建物を木っ端みじんに吹き飛ばし、放射熱線で火の海にしてしまいます。
この描写はそっくりそのまま、本作でも描かれます。
そして、ゴジラの姿や、恐ろしい様子を伝えるために鉄塔からレポートを行うレポーターたち取材班が登場します。
彼らはゴジラに見つかり、襲われてしまいます。
上記の画像の「いよいよ最後です」のセリフの後「サヨナラ、サヨナラ」と言いながら倒れた鉄塔に巻き込まれてしまいます。
けっこうショッキングなシーンでした。
本作では、銀座の建物屋上に登場します。
やはり建物を破壊されそのまま巻き込まれてしまいます。
「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」以下「GMK」と表記します。
山崎監督自身が「GMK」が大好きだとインタビューで答えています。
特に凶悪なゴジラが描かれ、その姿も「白目」の非常に恐ろしいデザインとなっています。
ラスト近く、深海に急激に沈められ水圧に押しつぶされそうになりながらも、生き長らえて今度は急激に浮上させられ、超高圧状態から、通常圧に急激な減圧を強制されます。
結果、ゴジラの身体はところどころ白く崩壊し、目も真っ白になっていました。
これはGMKゴジラへのオマージュとなっています。
また、敷島が神電に積んだ爆弾を機体ごとゴジラの口に突っ込ませ、爆破して倒したゴジラは青いレーザーのような放射線エネルギーを体外に漏出させます。
これもGMKゴジラへのオマージュです。
さらに、ボロボロと崩れ落ち深海へと沈んでいくゴジラの肉片が、ボコボコと膨張して再生しているかのように見える描写もGMKのラストシーンのオマージュです。
日本人にとって、第二次世界大戦に敗戦したことは、今現在にも影響があるほどにショッキングで悲惨なことでした。
でもそこから新たに生きるために「復興」をし始める人々の苦悩と葛藤を描くことで、忘れてはならない事を若い世代にちゃんと伝えるための「入り口」として機能させようという意図が見えます。
2023年は戦後78年です。78年という歳月はひとりの人が生まれてから、亡くなるまでの年数に相当します。
現在の30代以下の若者たちは、「戦争」=「重たくて避けたいもの」というイメージになっていると思います。
「重たくて避けたいもの」と言葉としては正しいのですが、「話をするのも避けたいもの」という方がより近いのだと思います。
「戦争」を題材にした映画が今ひとつ人気がないのはそのせいなのだと思います。
そこで「戦時中」よりもこれからを描ける「戦後」に焦点をあてつつ、「戦時中」を想起させながら、且つ、復興のためのたくましい人々を描き、より分かりやすい人間模様を描くことで苦手意識を持ちづらくさせているのだと思います。
日本帝国軍の補給線を断つために米軍などが無数の機雷をまき散らしました。
この機雷は磁気式機雷といい、近くに金属を探知すると爆発する仕組みの機雷です。
神戸市にある「戦没した船と海員の資料館」の資料によれば、終戦後の約4年の間に、米軍などが仕掛けた機雷によって船が沈んだり座礁したりする事故が少なくとも117件起きており、その際に亡くなった人は1946人にも及ぶそう。機雷は、戦争が終わった後も、多数の引き揚げ者や一般市民の命を奪い続けたのです。
戦後間もない日本の海では漁船が沈没する海難事故が起きることは機雷の爆発に巻き込まれたことをまず思い浮かべるくらいに当然のことだったそうです。
敷島が見つけた高収入の仕事「機雷撤去」は実際に「掃海」という言葉で表される現実にあった職業だったそうです。
実は本作は科学考証・歴史考証が実にキッチリとされ描写されています。
「徹底的にリスペクトして、全く違うものを作り出す」というのを目指して製作したのだと、山崎貴監督はインタビューに答えているのだそう。
そこで、「シン・ゴジラ」との比較をしてみたいと思います。
「シン・ゴジラ」は登場人物がすべて政府筋の人間であり、政府vsゴジラつまり、日本対ゴジラを描いています。
対して「ゴジラ-1.0」は主人公の敷島の罪悪感、絶望感、不能感の象徴としてのゴジラとなっています。
つまり、これは敷島対ゴジラの図式がもっとも大きく語られている訳です。
「シン・ゴジラ」は海から現れますが、割とすぐに上陸し暴れまわって海に帰ります。ですが海中の描写はほぼありません。次に姿を現す時にはすでに巨大化してもう上陸するところから描かれます。
その後の戦いはすべて陸上で行われます。
対して「ゴジラ-1.0」はもちろん上陸して暴れまわったりもしますが、主に海上での戦闘が描かれます。
「シン・ゴジラ」のゴジラは神出鬼没です。突然日本の近海に姿を現して本土に上陸します。
対して、本作のゴジラは大戸島の伝説で語られている「大量の深海魚が浮かんで来たら」呉爾羅が現れる前触れとなっています。
つまり事前にいつどこに現れるのかが、読めるという事です。
ちなみに、浮いてきた深海魚がみな、口に丸い袋のようなものをつけているのですが、これが何かというと、裏返ってしまった胃袋なんですよね。
深海魚の身体は深海の水圧に耐えられるように、身体の内側から外に向かって内圧が高くかかっています。
これが急浮上すると一気に水圧が弱まるので、体内の高い内圧のせいで内臓が外に飛び出してしまうんですね。
野田がこれを見て、「海神(わだつみ)作戦」を思いついたのではないかと予想されます。
「シン・ゴジラ」に登場する人々は政府の人間がほとんどであります。つまり公人がゴジラと相対していく物語として描かれていました。
対して、本作は政府に対する不信感をもった人々が政府をあてにせずに自主的にこれからの日本(家族など大事な人々)を守ろうと戦う様が描かれています。
この強い政府に対する不信感は、監督がコロナ禍の際に「政府がちゃんと機能していない」と感じた憤りを込めたのだとインタビューで語っています。
舞台がいつなのかも重要な要素でしょう。
「シン・ゴジラ」は2016年公開年現在にもし本当にゴジラが現れたら、という設定で描かれています。
「ゴジラ-1.0」は恐らく1946、1947年くらいを描いています。終戦直後です。
「ゴジラ(1954)」へのオマージュももちろんありますが、ゴジラ作品で「戦後」をきっちりと描いた作品は初めてです。
「シン・ゴジラ」は早口で説明セリフをまくしたてることで役者に演技をさせない演出や、CGによる今までにないゴジラの表現で、革命的なえいぞうだという評価を得ました。
対して、「ゴジラ-1.0」は人間ドラマを中心にした、いわゆる分かりやすい王道作品となっています。
「シン・ゴジラ」は基本的に庵野秀明監督の「ゴジラってこーでしょ?」「ここをこうしたらよくなったでしょ?」という完全なオタク目線で製作されています。
だからオタクウケは非常によいです。が、海外ウケはいまひとつだったようです。
「ゴジラ-1.0」は王道として製作されているので分かりやすく、受け入れられやすい側面を十分に持ち合わせています。
今後世界的大ヒットが狙えるだろうと思えるのは、こういった初めて見る人や家族での鑑賞をする人々を意識した作品だからです。
「シン・ゴジラ」は行ってみたら人知の及ばないような未曽有の災害に襲われた日本の人々の動きを感情を交えずに描きました。非常にドライな作品だと思います。
「ゴジラ-1.0」は非常にウェットな人間ドラマを扱っています。コンプレックスや罪悪感でいっぱいの敷島が、典子と明子に出会い疑似家族として、居場所を見つけていく、心を開いていくといった描写はまさに人間ドラマです。
そしてこれはもう、両監督の違いです。
庵野秀明監督は言ってみたら天才肌の監督です。才能をウリに自分が撮りたいもの、作りたいものを作ります。
濃ゆいファン層を獲得するタイプとも言えます。
対して、山崎貴監督はいわゆる職業作家です。
もちろん、根底には「人々を喜ばせたい」というのがあるわけですが、依頼内容をきっちりと仕事としてこなした上でのエンターテインメントを追求します。
万人ウケするタイプと言えるでしょう。
父母に「生きて帰れ」と言われ、特攻から逃げ出し、
大戸島で最初に呉爾羅に遭遇した時に20㎜砲で撃ってくれと言われるが、恐怖のあまり撃てずに周囲の兵士たちがみな死んでしまう。
なんとか、実家に帰りつくが、「生きて帰れ」といった父母は空襲ですでに他界。
さらに隣人の澄子に「あんたみたいな兵隊が頑張らなかったから、わたしの子供たちは死んでしまったんだ」と責められる
ひどく「恥ずかしい」という思いと大きな「罪悪感」を背負ってしまい、死んでしまった方が良かったのではないかという失意のどん底に立たされます。
そんな中、典子と明子に出会います。
「死んではいけません」と諭され、敷島はだんだんと心を打ち解けさせていきます。
台所で明子に典子が炊いた大根を食べさせてる姿を見ながら、笑顔になる敷島。
この時、ふたりを心から守りたいと敷島はおもったのでしょう。
しかし、そんな幸せな時間は長持ちしません。
働きに出る典子が向かった銀座にゴジラは襲い掛かります。
逃げ惑う人々の中からなんとか典子を見つけ出した敷島でしたが、その目の前で典子を失ってしまいます。
絶叫する敷島に黒い雨が降り注ぎます。
絶対的にゴジラを倒そうと誓う敷島と、その「許されない」のだという絶望を強調する黒い雨が象徴的です。
本作は王道ドラマの形式として、敷島vsゴジラという図式にしています。
これはドラマとして「分かりやすい」ことが最大の理由です。
分かりやすいからこそ、多数の観客の共感を得られやすいわけです。
CGだからこそ、可能とされるものとして巨大なゴジラをどんなアングルでも、どんな距離感でも撮影が可能という事です。
そこでゴジラの息がかかりそうなほどの接近した映像にすることによって、まるで自分がゴジラに睨まれているかのような、迫力の映像を作ってます。
ホントにすごい迫力です。
なんでもリアルに描くことが出来るCGにも弱点とされるものがあります。それが明るいシーンでの水の表現が難しいという事なんです。
しかし、今作は実写とCGをミックスした映像を多用するところが多いです。
中でも海での戦闘シーンがありますが、何の違和感もありません。
今作における典子=浜辺美波はいわゆる女神として描かれています。
追い詰められる敷島の癒しの女神であり、最愛の女神でもあります。
また、明子を育てるためになんでもやろうとする母性の女神です。
終戦直後で心も社会も荒れてしまった中で、真っ直ぐただひたすらに人を愛し、感謝し続ける女神なんですよね。
そして見事にそんな女神をキッチリと演じあげた浜辺美波はすごい女優さんですよね。
ベテランや役者としてのキャリアが素晴らしい俳優陣の中にあって、その独特の輝きを放つ笑顔に敷島だけじゃなく自分も癒されました。
数々の軍艦が登場します。
これらの軍艦や艦艇は歴史上実際に存在したものであります。
しかも終戦直後に武装解除して廃艦処分になるというのも時期的に、合っていて歴史の勉強にもなります。
敷島は特攻隊員でしたが、両親に「生きて帰ってこい」と言われていたのと、怖かったのとで零戦が故障したと偽り、逃げた結果復員兵になります。
戦闘機乗りが主人公なのでもちろん戦闘機が登場するわけですが、本作での目玉は何と言っても「震電」でしょう。
零戦の中でも船尾にプロペラが付いている珍しい機体で「幻の零戦」です。
ここでも「シン・ゴジラ」との比較が出来ます。
「シン・ゴジラ」は「ゴジラvsデストロイア」などをモチーフとして最終的にゴジラを冷凍して封じ込めました。
対して「ゴジラ-1.0」では「ゴジラ(1954)」へのオマージュとして、「海底に沈める」というのと「泡」を使います。
これは「オキシジェン・デストロイヤー」のオマージュでしょう。
そして、ゴジラを深海に一気に沈めるための方法として「海神(わだつみ)作戦」が考案されますが、この作戦名も「日本沈没」で活躍した深海探査艇「わだつみ号」からとっています。
そして、この作戦の「泡を使う事で浮力を失わせる」というロジックは実は非常に合理的なことが上記の動画で分かります。
歴史考証、科学考証がある程度しっかりしているからこそ、SF的な面白みが増すって思います。
セリフがウザイとかクサいとかいろいろ批判する方もいらっしゃるようですが、これがあるからいわゆる「一般ウケ」するわけですよね。
より多くの普通の人に響かせるためのクサさってたぶんあると思います。それも世界的にウケさせようと思ったらって考えた時に、「これはすごい!」とおもいました。
「ALWAYS-三丁目の夕日-」などの代表作に現れる、人間ドラマのクサさがあります。
誰も血が繋がっていない疑似家族や、恋愛感情や本音がなかなか言葉に出来ずぐずぐずするところや、ふいに起こる悲劇、そして戻ってくる日常など、ある種のパターンのようなものが見て取れます。
そして、この「クサさ」こそが、世界的に共通する人間としての感情を揺さぶる効果があるようです。
ハリウッド映画やその他の国の映画を観ても、いわゆる「クサいドラマ」はウケがいいです。
世界的なヒットが狙える要素を多分に本作は持っていると言えるでしょう。
高雄の主砲による艦砲射撃を受けても、傷があっという間に回復再生してしまう。
そもそも「ゴジラvsビオランテ」での「G細胞」や「ゴジラ2000 ミレニアム」からの「オルガナイザーG1」など強力なエネルギーを宿し、ゴジラでなくてはコントロールできない究極の生物の証が、その細胞であり驚異的な自己再生能力です。
もちろん「シン・ゴジラ」でも完全生物としてのゴジラ細胞の説明が出てきます。
自己再生能力というよりは、短時間での自己進化・退化能力として描かれました。
ここまでゴジラは攻撃されてもほぼ無傷を誇っていました。
しかし本作では自分の放射熱線でも身体が焼けてしまう描写があります。これが見る間に再生してしまうのです。
また新しい絶望的な「怖さ」の表現でもあると思います。
典子の首筋の痣(?)動いてるよね?=G細胞取り込んだ?
銀座での熱線による爆発のあとの急激な吸い込み現象で、典子はゴジラの元に吸い込まれてゴジラの肉片に触れたのではないか?=吸い込み現象の際に映っていたのは敷島だけで典子がどうなったかは一切映っていないし語られない。
つまり、深海に沈んだゴジラの内臓がボコボコと膨れていたことと、典子の首筋の痣のようなものの謎が残されたままです。
ここからいろいろと物語を膨らませる事って、そう難しいことではなさそうですよね。
つまり、続編が可能な形でラストが語られています。
敷島も典子もゴジラの熱線や身体からの放射線で被爆しています。しかし典子はG細胞のおかげで回復し、逆に敷島はだんだん弱っていってしまうと考えられます。
典子は弱っていく敷島を支えつつ、明子を育てていくことでしょう。
明子がひとりぼっちにはならないだろうと予測されます。
さらに銀座での爆発では典子と同じ境遇の人々が他にもいて、何らかの異常をきたした者が現れてくるのだと思います。
当然、当時その場にいた典子にも同じような異常が現れるのではないかと疑う連中が現れ、典子はその能力(異常)を研究する施設へと閉じ込められてしまうのでしょう。
その頃には明子は10代後半の活気のある女子に育っていると思われます。
明子がどうするかは分かりませんが、恐らく「母を返せ」とある種過激な行動をとるようになるのだと思います。
そうこうしているうちに、ゴジラが復活します。
その時、典子はゴジラが何をしようとしているのか感じ取る事ができてしまいます。
これがその後のゴジラと共感することが出来る女性たちの「はじまり」となります。
みたいな感じですかね~( ゚д゚)ウム
日本においてではありますが、「ゴジラ-1.0」はお正月映画として公開されています。
しかし公開日は11/3です。
これはぶっちゃけ自信があるんですね。
「この作品は最低限1月末までのロングランになる」というのをあらかじめ見越して11月からの公開になっているわけです。
「レジェンダリー・ゴジラ」または「モンスターバース」シリーズが世界的にヒットしてハリウッドでのゴジラや怪獣に対する評価が上がっていて、「ゴジラ-1.0」への期待度も高まっているのだそう。
時代の流れとは言え、そこにうまくタイミングよく乗せられるのは幸運というだけではないのだと思います。
アメリカのシネコン含む映画館1500館での上映を予定しています。つまり1500館を抑えたわけですね~♪
しかも多いところで1日4回の上映を行うそうです。
日本だと1日10回上映とかあるので少ない気がしますが、アメリカの映画館においてヒット作で、非常に多かったとしても6~7回なんだそうです。むしろハリウッド映画でもない映画を1日4回上映するのは破格の回数なんですね。
上記でも一度触れましたが、アメリカの映画館での現在の予約状況が6~8割座席が埋まっているという状況なのだそう。
これも異例の注目度だという事が分かるデータだと思います。
さらに山崎貴監督は、「ハリウッドでのヒットを狙える」ようにハリウッドを意識した、VFX、そして人間ドラマの構成を考えて撮影しました。
そう、「ゴジラ-1.0」は対ハリウッド用決戦作品なんですよね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。今回の記事は以上となります。
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