2022年アカデミー賞の発表で話題になった作品がこの「ドライブ・マイ・カー」です。
一体何がそんなにすごかったのでしょう?
出来るだけわかりやすくこの映画のすごさを語っていきましょう。
2021年公開の濱口竜介監督作品。
西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生らが出演。
第94回アカデミー賞で4部門にノミネート。日本映画史上初めて作品賞、脚色賞、監督賞、国際長編映画賞の4部門にノミネート、国際長編映画賞を受賞。
海外、国内問わずに評価が高く、たくさんの賞を受賞している作品です。
原作は村上春樹の同名小説「ドライブ・マイ・カー」ですが、基本設定は踏襲しているものの映像作品として再構成されています。
◆映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト
家福悠介(かふく・ゆうすけ)は、舞台演出家で妻の音(おと)も脚本家。二人には娘がいたが、幼いころ肺炎で亡くし以後は二人だけで暮らしている。
ある日悠介は音が自宅に男を連れ込み激しく抱き合っているのを目撃してしまうが、何事もなかったように黙っていた。
悠介が音から「帰宅したら話したいことがある」と言われ、夜に帰宅すると音は倒れていた。
音はそのまま意識が戻ることなく亡くなってしまう。
2年後、悠介は舞台演出家として広島国際演劇祭に呼ばれ、「ワーニャ伯父さん」を多言語劇で上演することが決定。
自動車でのトラブルを防止するために専属ドライバー渡利みさきを紹介される。
オーディションに各国から役者が集まり、役が決定し稽古がはじまる。
台本を棒読みするだけの稽古が続き役者が戸惑い気味になるが、しだいに感覚が鋭敏になっていくのをお互いに感じる。
悠介は毎日みさきの運転する車でホテルと劇場を往復する。
みさきは往復の車の中で少しづつ自分の生い立ちを悠介に話し始める。
暴力的な母親に運転を仕込まれたこと、母親の死をきっかけに広島まで流れてきたことなど。
そして「ワーニャ伯父さん」のワーニャ役を演じる高槻が悠介に近づきはじめる。
みさきの運転する車の中で悠介は音の浮気相手かもしれない高槻に音との間にあった秘密を話す。
高槻は悠介の告白を聞いた後、自分が浮気相手であると明かし、音の語った物語の続きを話した。
最終稽古が始まったある日、高槻がとある事件で逮捕されてしまう。
悠介はワーニャ役を引き継いで自分で演じるか、上演をすべて中止にするかの選択を迫られることに。
みさきがゆっくり考えられるようにドライブを提案するが、悠介は「君の育った場所を見せてほしい」といい、みさきの運転する車で北海道へ向かう。
車の中でお互いにいままで黙っていたことを語らう。
みさきの生家の跡に着いた時、悠介は自分が目を背けてきた様々な感情に直面する。
この作品のわかりやすい特徴として、非常に分かり易い起承転結の構造があります。
上記のざっくりあらすじで書いた通り、きれいな4パートになっています。
このおかげで非常に複雑かつ入り組んだキャラクターたちの感情表現が分かり易くなっています。
よりテーマを浮き彫りにしてわかりやすく表現されていると思います。
「感情はひとつではない、見えない部分も感じてほしい」というのがテーマになっています。
いろんな映画でもよく言われるのですが、「メタ構造」という言葉をよく耳にします。
「メタ構造」とは対比的な構造とか入れ子状の構造のことを言います。
今作もメタ構造になっています。
「ワーニャ伯父さん」という文学作品と、劇中で演じられる演劇の「ワーニャ伯父さん」とそれぞれのキャラクターと見ている観客、さらに映画の観客である自分達と、幾重にも重ねられた構造になっているんですね。
「文学作品のキャラクター」から「映画を観ているあなた」へとつながる共通した思いを「感じてほしい」という構造になっています。
幼くして亡くなってしまった娘がいたと語られます。
娘を失ってから、セックスの際に妻・音は物語を話し始めます。
自分で語った物語を音は覚えていないので、あとで悠介が話して音がメモをとるということを繰り返します。
この物語の内容は、音が大きな違和感を覚えているということを表しています。
悠介は音に対して娘を失ってしまったことを責めずに何事もなかったかのように接します。
何事もなかったことにされてしまうのは責められるより辛い、だからわざわざ手がかりを残しながら浮気をすることで、「自分は確かにここにいて、やったのは私だ、悪いのは私だ」ということを訴えています。
しかし悠介は見えていない、見ていない、見ない事にしている状態です。
冒頭のセックス後の物語を語る音は陰で誰だかわからないような映像だったり、悠介は緑内障になっています。これは音のことが「見えていない」という隠喩です。
また、音の物語で最後に入ってきた空き巣を殺す時に目を突き刺します。
これも「あなたには見えていない」または「あなたは見てさえいない」というのを表しています。
悠介の潔癖が嫌だという感情を全く見てくれない、感じることすらしてくれないということへの抗議でもあるんですね。
悠介との生活に耐えられなくなった音は浮気をして、自分を汚すことで潔癖の悠介に反抗するんですね。
悠介に対する愛情あればこその「わかってほしい」という気持ち。けど「その言葉は表に出せない」という中での苦しい心情のせめぎ合いです。
悠介にそんな心情を「感じてほしい」ということです。
みさきは悠介に対して、潔癖さを寛容に受け入れます。
悠介はそんなみさきに絶対に誰にも運転させなかった自分の車を運転させます。
悠介が唯一、「受け入れることのできる女性=母親」なので、みさきに母性を感じたということになります。
最終シーンでは韓国でたったひとりで悠介の車を運転しているみさきが映ります。
これは悠介がみさきの事を娘として、また母親として、つまり家族として完全に受け入れたことを意味しています。
悠介の「感じてほしい」ことをみさきは受け入れているんですね。
「仕方ないの、生きていくほかないの。…長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう」
このフレーズが繰り返し出て来ます。
良い事があっても、悪い事があっても精一杯生きることが大切なことだというメッセージになっています。
そして生きるという事はどういうことなのか?というのを「感じてほしい」訳です。
映画「ドライブ・マイ・カー」の原作は文藝春秋で連作された「女のいない男たち」の短編小説として収録された1作目の「ドライブ・マイ・カー」です。
また直接の原作というわけではないですが関連作品として同じく「女のいない男たち」に収録されている「シェエラザード」と「木野」。それぞれの一部分が映画に反映されています。
そして劇中で繰り返し触れられる「ワーニャ叔父さん」。ロシアの代表的作家アントン・チェーホフの4大戯曲のひとつです。
この戯曲は4幕構成になっています。
映画「ドライブ・マイ・カー」が綺麗に起承転結の形になっている理由の一つでもあります。
さらに劇中で舞台化されているもうひとつの作品がサミュエル・ベケットの2幕からなる戯曲「ゴドーを待ちながら」。
この作品は「思い込み」について言及している作品です。
以上、複数の作品がバランスよく複雑に絡み合うことで独特の雰囲気と意味と表現になっています。
より深く、感じたいと思ったら、各作品を読んでみるのも良いでしょう。
総じて、この映画のキーワードは「感じてほしい」というのがメインテーマとなっています。
「ワーニャ伯父さん」という文学作品、多言語劇「ワーニャ伯父さん」、各キャラクター、そしてそれを見ている観客の自分たちに共通する思いや生きていくとはどういうことなのかなどを「感じてほしい」。
各キャラクターの秘めたる思いを「感じてほしい」。
難しいことを考えずに「感じてほしい」というのがテーマになっています。
つまり、掘り下げて深読みしたいと思ってもいいし、まったくの感覚だけでさらっと見てもいいし、とにかく「感じてほしい」という事なのだと思います。
深く読もうとすればどこまでも深く読めるこの「ドライブ・マイ・カー」ですが、より深く理解されたい方はチェーホフの作品を読むとよろしいかと思います。
以下の動画は、「より深く」をわかりやすく解説している動画です。
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