映画のストーリーなどはご存知の通り、小説などの原作を元に製作されたものも多いです。
しかし、原作を元にしていても大分改変されていたり、全くの別物になって絵しまったりしていることもあります。
ここでは「原作」に対して、どう考えるのか?を少し語ってみたいと思います。
「原作」とは、小説などが映画などに移し替えられることで「原作」と呼ばれるようになります。言葉的に「元の作品」という意味ですから。
「小説→映画」を思い浮かべますが、「映画→小説」の場合は映画が「原作」になります。ほかにも「ノンフィクション→映画」「コミック→映画(実写)」「コミック→映画(アニメ)」と様々なパターンがあります。
つまり、とある「作品A」が別の媒体に移し替えられて「作品A+」や「作品A*」などになった時に「原作A」となるわけです。
よく、「原作の方が面白かった」とか「原作を超えた」とか聞きます。
基本的に同じ物語なのですから、確かに比べてしまうのは自然なことのように思えます。
でも、よく考えたらそれって、「アイスとケーキはどっちが美味しい?」と比べているようなものです。
例えば、小説と映画を比べた時に言えることは楽しみ方が全く違うメディアなのだということです。
小説は文字と言葉によって物語を表現します。
当然、見た目についても言葉での説明になりますが、同じ言葉を聞いても人により想像する場面や絵柄、人の顔や仕草、景色、色合いが違います。
かなり自由度の高い想像をすることができます。
対して、映画(映像)は一瞬で伝えられる情報量が圧倒的に多いです。
しかもカット割や構図などの撮影手法を使ってその上に意味を持たせることもできます。
想像する余地はほとんどない代わりに圧倒的な情報量を伝える事ができます。それも観た人に共通のイメージを多く届けることができます。
以上の違いを考えると、語り口は自然と変えざるを得ないということになります。
原作を読んだり見たりした時のイメージと違っているというのは実は当たり前のことなんですね。
特殊なケースなのが、「2001年宇宙の旅」です。
この作品は初めから映画の説明を小説でしようとした作品で、映画を観ただけでは意味が分からないようにできています。(言ってみたらストーリーそっちのけでかっこいい映像を繋ぎ合わせただけの映画です。)
このことに関しては以下の記事に詳細を書いています。
有名作品で繰り返し舞台や映画化されるのが、ウイリアム・シェイクスピアの「ハムレット」です。
戯曲として書かれたものなので、舞台化されるのですが、舞台は演出家により様々に変化します。さらに映画化されるとなれば、また一風違った変化を起こします。
この作品は悲劇で、その時代時代のモチーフを滑り込ませやすい作品でもあるために繰り返し舞台や映画化されます。
複雑かつ良いバランスで原作や周辺作品など絡み合い素晴らしい作品となっているのが「ドライブ・マイ・カー」です。
複数の作品をモチーフにするのには緻密な計算とバランス感覚が非常に重要です。この作品は絶妙なバランスで絡み合っています。
そこで、より楽しむための見方と考え方というのを電八なりに考えました。
以上の3つを守っていれば、作品に幻滅してしまうということは少なく済むと思います。
1,は簡単にいうと、小説→マンガ→映画(映像)の順で情報量が多くなるので、できれば多い方から、つまり映画や映像作品から見ていった方が、楽しめると思います。
これは小説やマンガなどは情報量が少ない分を想像で補うわけですが、人それぞれに想像したものには違いがあります。映画などとのギャップが生まれやすくなってしまうわけです。
逆であれば、気に入らない役者やシーンを自分の想像で修正して楽しむことができる余地があるということです。
小説が映画になるってどういうこと?『華麗なるギャツビー』から『インヒアレント・ヴァイス』まで、現代アメリカの文学と映画を中心に、トマス・ピンチョンの専門家がわかりやすく解説!板書を見ながら講義を受けているような、チャート17点!アダプテーション論をさらに学びたい人のために…リーディング・リスト付き。小説と映画はこんなにちがう!…スクリプトと小説のシーン比較付き。
Amazonより引用
「アダプテーション」という学術的なアプローチで映画原作について論じられている書籍です。
参考になると思います。
最近は原作者の作品に対する思いなどを無視した作品作りのことを「原作レイプ」と呼ぶのだそうです。
有名なところではアニメ版「うる星やつら」です。
自分は直撃世代です。お金がかかる原作よりも毎週無料で見られるアニメを楽しんでいました。
もちろん機会があれば、原作を読むようにもしていました。
アニメ版、特に「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」に関して原作者である高橋留美子さんはあまりにも原作から逸脱したキャラクターたちの言動に、監督の押井守氏に対して激怒したということを、割と最近になって知りました。
実際にその場で何かを言ったわけではないそうですが、その後2度と押井守氏は「うる星やつら」に関わっていません。
「うる星やつら」のパターンとは違いがいろいろありますが、他にもいろんな作品が「原作レイプ」だと話題になったりもしています。
これはひとつには商業主義が強く出てしまっているためだとも言われています。
またメディアが違う以上、全く同じに描くことは不可能に近いのですが、ユーザーからの理解を得ることが難しいのも原因のひとつです。
原作者が作品作りにしっかりと関わった場合を除いて、何かしら違いが生まれてそこに対する感想の違いも生まれてきます。
なので、電八的には何でもかんでも「原作レイプ」だと一括りにして吊し上げるようなことはする必要がないと思います。
裁判の時に関係ない人が傍聴席から「死刑だ!」とか「無期懲役だ!」とか騒いでいるのと同じで混乱を招きこそすれ、良い結果を生むことはないと思っているので、ことさら騒がないのが大人の嗜みなのだと。
「原作」という言葉と共に「原案」というのもあります。
「原案」とは「作品の元や根幹になるモチーフやアイディアなど」のことです。
例えば、横溝正史の小説に登場する私立探偵「金田一耕助」をモチーフにした作品がたくさんあります。
その中でドラマや映画で「悪魔が来りて笛を吹く」や「犬神家の一族」「八つ墓村」などは横溝正史の小説を元にしているので、「金田一耕助シリーズ」を原作とした作品となります。
また、マンガやアニメ、ドラマなどで人気だった「金田一少年の事件簿」は主人公が金田一耕助の孫という設定で事件の謎を推理するという内容。
この場合は設定やモチーフを模していますが、時代も背景も、主人公も違う作品です。ですから「金田一耕助シリーズ原案」ということになります。
ざっくりではありますが、設定やアイディアなどを使用して全く違う作品を作っている場合は「原案」ということになります。
この記事でわかることは
最後まで読んでいただきありがとうございます。今回の記事は以上となります。
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