感謝しましょう。

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以前、以下の記事を見つけた時に思ったことを書きます。

◆「『かわいそう』と魚を食べられない子供が増加…『それは動物愛護とは違う』と諭す教育も大切」…愛媛新聞

「『かわいそう』と魚を食べられない子供が増加…『それは動物愛護とは違う』と諭す教育も大切」…愛媛新聞 : 痛いニュース(ノ∀`)
1 名前:☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★ :2009/09/24(木) 10:53:25 ID:???0 食卓に上がったお魚の目がかわいそうで、食べられない子どもが増えているという。「これは恐ろしいことです」と、青木...

昔から思っていたことではあるのですが、言語化するのは2回目です。

※自分なりに分かりやすくするために宗教で使われる用語を使っていますが、誤っていることもあるかと思います。ご容赦ください。

感謝して美味しく食べるは必須

この問題には答えがいろんなところにあります。

「感謝して美味しく食べる」が正解。

そう難しいことではありません。

そしてちょっとした好奇心があれば、間接的に殺しまくっている自分がそこにいるって
気がつくと思うんだけどな~と思うのですが、、。

このニュース記事からはそういった想像力が感じられないのが残念です。

「新鮮で活きがいい」って「直前まで生きていた」と翻訳できるということに気づかずに過ごしているのでしょうね、きっと。

食べ物って何でできてる?

一体、食べ物って何からできているのでしょう?

例えば、みんな大好きな「肉じゃが」。

肉はいうに及ばず、ジャガイモ、ニンジン、などなど見れば生きていたことがすぐにわかる素材があります。

またシラタキ、や砂糖、塩、しょうゆ、みりん、酒など調味料なんかは何から作られたものか分かりづらいです。

この中だと塩以外は植物由来であることが分かります。

という感じで、ほぼすべての食べ物が何か生き物から作られています。

つまり「人間は命を」食べています。

人間は命を奪って生きています

人間は命を奪って生きています。」これはこの地球に住む生物すべてが命の連鎖で繋がっているから。

直接的にせよ、間接的にせよ、奪った命から生きるためのエネルギーを得ています。

植物性プランクトンは他の命を奪っていないという意見もあるかとは思いますが、

他の生物が生み出した有機物などを取り込んで活動するためのエネルギーを得ているので
他の生物あってのモノたちだということもでます。

もちろん、肉、魚、野菜、など他生物を食すものたちは命そのものからエネルギーを得ています。

つまり人間が食べるすべてのものは他の命を奪って出来ています。

外れるのは一部の調味料くらいですかね。例えば塩は岩石や海水から抽出するので命を奪う事にはなっていないです。

でもそれ以外のほとんどの食材は生命体から得ています。

どの宗教でも「感謝」を大事にします

基本的に宗教はどれも「感謝」を大事にしています。

まあ中にはそれを拡大解釈してお布施が多いほど(寄付の金額が高いほど)功徳が積める(えらくなれる)という事にしているところもありますが。

基本的には人間は生きる上で「必ず重ねる罪がある」つまり生まれた瞬間からその罪を背負っていると説いているところが多いです。

生きるためには食べなければなりません。食べるという事は他を殺して食べるという事です。

こういった殺生(罪)を宗教では「原罪」といっています。

つまり人間はもともと罪を背負って生きています。

だから奪った命に感謝して生きよう。

奪った命は残さず、ありがたくいただく。これが大事となるわけです。

いわゆる哲人たちはどうしたか?

命についての哲学が宗教を産んだのだとして、究めた人々はどうしたか。

キリスト教は神にこの罪を許してもらえるように祈り続けます。

仏教は原罪の連鎖から飛び出すために、修行して仏になろうとします。これを解脱(げだつ)といいます。

「殺生を嫌い、といって殺生せねば生きられない。」という矛盾に悩まされながら考え抜きました。

アダムとイブは「黄金のリンゴ」を食したことにより総ての人間の祖先となりました。

「黄金のリンゴ」は知識を象徴するものであると同時に、「命を食す=原罪」も意味します。

だから、神より生きる上での苦痛と寿命を与えられます。

生きる罪ある存在にシフトしました。

仏陀でさえ、生前は豆を食し生きていました。

その後、修行により食べなくても良い罪の消滅した存在「仏」にシフトしました。

つまり解脱(げだつ)したわけです。(生きている存在ではなくなった。)

即身成仏(そくしんじょうぶつ)した僧たちもそこを目指したわけです。

「食べる=罪」を始めたことで人間の祖先になったアダムとイブと、「食べる=罪」をやめることで解脱した仏陀。

つまりどの宗教でも「食べる=罪」は原罪ということで同じ認識なんですね。

罪を犯した分、善行を積む

キリスト教も仏教も基本的には罪に対してどうしようか?ということを考え抜いてきたという事が言えます。

そのひとつの答えが「罪を犯した分、善行を積みましょう」ということです。

仏教では功徳(くどく)と言います。

でも、まったく難しいことではありません。

例えば食べ物を「感謝して美味しく食べる」ということです。

好き嫌いやアレルギーなどがあってどうしてもという場合以外では美味しく残さず食べることです。

(好き嫌いについては難しいのですが、度が過ぎない程度としか表現できないような。。。)

「感謝しない」=冒涜です

感謝しないという事は夥しい数・量の命の無駄遣いをすることになります。

生きると言うことは罪です。

だから功徳を積む必要があります。

命を奪ってまで生きると言うことに価値を見出せないというのは、そこまで生きるために奪った命を無駄にしてしまうことです。

自分の命だけでなく、自分を産み出した両親が奪ってきた命をも無駄にする行為です。

もっといえば自分まで連綿と続いてきた生の歴史すべてを冒涜する行為になります。

「夥しい数・量の命の無駄遣い」を冒涜以外の言葉では表せないです。

己を産み出してくれてありがとう。

己の存在を維持してくれてありがとう。

己の分身を産み出し、生かしてくれることにありがとう。

生きる存在なのであれば、感謝は必須ということです。

まとめ

焼かれて出てきた魚が可哀相ならむしろ「残さず美味しく食べる」がベスト。

じゃなければ、その魚をそこまで生かしてきた命を無駄遣いすることになる。

自分を生かしてきてくれた命を無駄遣いすることになる。

命を無駄遣いしないためには新たな命を産みだす事

産みだす事が出来ないならせめて謙虚に感謝する。

仏陀のように解脱する?

残念ながら人類総てが解脱するための叡智はまだもたらされていません。

どのみち解脱するにせよ、連鎖から外れるならば生きていられないのだから。

つまりアダムとイブがリンゴを食す前のような罪のない存在「無垢な存在」にはもどれないのです。

だから感謝することくらいしか出来ないのではないでしょうか?

そんな話を家庭の食卓でするのも大事なのかもしれません。

おまけ

感謝つながりで、記事にはまったく関係ないのですがすごい人を見つけました。

ハンターハンター連載再開まで一日一千回感謝の正拳突き

毎日配信しているようで、活動始めてから3年目になったとか。いま話題になっている方です。

はじめは毎日1万回だったようですが、体調や続けられる回数をということで1000回に落ち着いたとのこと。

まるきりの武術・格闘技未経験の方がここまでやってのけるのがすごいです。

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