「道」を極めるという事

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武術、武芸、武道、の違い

以前、同じ内容の事を別のブログで記事にしたことがありましたが、自分自身で整理し直す意味を含めて再度記事にします。

よく武術家、武芸者、武道家なんていうんだけど、何が違うのかと不思議に思っていました。

  • 武術:本来人を打ち倒すために出来た技術、もしくは護身術としてできた技術のこと。武術家とはそれを操る者という意味になります。まあ、職業として食い扶持を稼ぐ為のスキルというわけです。
  • 武芸:武術が極まり人にある種の感動すら与えることが出来るようになったものを言います。もはや食い扶持を稼ぐ技術を超えてる状態。
  • 武道:極まった武芸の中で己が生きていく上での指針のようなものを悟っていく状態。

術→芸→道と追及して極めると段階が上がっていくわけです。

日本では「道」を追求する事が当たり前というのがすごい。

術→芸→道、というのは「武」だけではない。

「術を極めて芸となし、芸の中に道を見出すべし。」

「学」「華」「茶」「芸」など日本にはたくさんの「道」のついたモノがある。

日本ではどの技術も求道的行為を最初から含む形で教えられている事が多いです。

技術よりも精神性に重きを置いて物事を教えるという国民性なのでしょう。

だからこそ、職人気質で「モノづくりの日本」を誇りに思えるのでしょう。

敢えて「道」を否定した男の話

「武」においては精神性ばかりを説いていては、実戦で使えないようになってしまうことがあります。

これを嫌い「道」よりも「術」、「芸」を極めた男たちをふたりご紹介いたします。

塩田剛三(しおだごうぞう)

実践的な合気道の達人として知られる塩田剛三。

養神館合気道の設立者。

彼は合気道が技を磨くよりも「道」を考える事を重要視した結果、実戦的には今ひとつになってしまっていたと感じていました。

そこで敢えて「道」よりも術、術を極めて芸に昇華させることに重点を置いて技を磨いたそうです。

そして実際に超実戦的な当身を積極的に使ったスタイルの合気道でその名を轟かせるようになります。

※当身とは突きや蹴り、体当たりのことです。

合気道では投げ技・極め技のみが基本なのですが、塩田は積極的に突きや蹴りを使っていくスタイルの合気道を練り上げ、達人となります。

しかし彼は晩年に、求めた「強さ」を極めた結果をこう言い残しているそうです。

一番、強いとはどういう事か分かりますか?相手と仲良くなってしまう事。これが一番強いです。なぜなら戦わずに勝ってしまうという事ですから。

一言一句この通りではないですがこんな内容の事だったそうです。

「道」をまずは否定し「術」「芸」を極めた結果、別の「道」を見出したわけです。

李書文(りしょぶん)

李書文の最後の直弟子、劉雲樵(りゅううんしょう)

中国拳法で有名な八極拳の達人、李書文。

「二の打ち要らず」と呼ばれ、ほぼ一撃で相手を殺してしまう程の達人でした。まさに「術」極め「芸」に昇華した状態でした。

その実力が認められ、かのラストエンペラー、溥儀皇帝の親衛隊の武術指導を依頼されます。

しかし彼は「道」を見出そうとはしなかったのです。

彼は粗暴な性格で人の「道」は学ぼうとせず、身に着けた「芸」で相手ばかりか弟子までも圧倒するばかりでした。

多くの敵は作りましたが、味方はなかったようです。

結果、勝負で負ける事はなかったのですが、敗れて死んでしまった者たちの遺族に毒を盛られて誅殺されてしまいます。

実力的には英雄と呼ばれてもおかしくないほどであったにも関わらず、なぜ英雄と呼ばれなかったのか。

人道のひとつである「礼」を欠いていたからでしょう。道から外れていたわけです。

道から外れていなければ天下無敵の英雄だったのではないでしょうか?

まさに「術を極めて芸となし、芸の中に道を見出すべし。」

まとめ

何でも極めていくと術→芸→道と自分の生き方との向き合う必要が出てくるわけですね。

これはきっと「道」と名前に付いていない、例えば「バスケット」や「野球」「サッカー」などのスポーツ、登山やキャンプなどアウトドア、ゲームやデザイン、商売やビジネスなど、なんにでも当てはまるのではないだろうか。

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