【映画を楽しむコツ】vol.171 「映画のお約束:日本映画の比喩表現を探る」 編 【映画的表現】

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UnsplashRodion Kutsaievが撮影した写真

2022年第94回アカデミー賞で「ドライブ・マイ・カー」、2023年第95回アカデミー賞で「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が受賞したりアジア映画が世界的に話題になりました。

そこで今回は日本映画に注目して見たいと思います。

日本映画においてよく用いられる比喩表現。ある種のお約束となっている表現は、見る人に想像力を掻き立て、物語をより深く理解させるために欠かせない存在です。本記事では、その代表的な表現について解説し、映画を楽しむ上でのコツを提供します。日本映画の表現力の豊かさを紹介します。

はじめに

作者: 紺色らいおん

はじめに 日本映画のファンであれば、多くの映画で繰り返されるテーマや主題にお気づきでしょう。しかし、「なぜ日本映画にはこれほどまでに比喩的な要素があるのか」と自問自答したことはないでしょうか?まず最初に、“比喩表現”とは何かを定義しておきましょう。

比喩表現とは、異なる映画やジャンルの中で繰り返される、よく使われるストーリーテリングの装置やテーマのことです。古典的なシーンから、悲劇的な死を遂げる指導者のようなキャラクターの典型まで、あらゆるものが含まれます。

日本映画に関して言えば、このような比喩的な表現は、ほとんど象徴的なものとなっているほど、広く浸透していることがあります。

では、なぜ日本映画にはこのような類型が多いのでしょうか?

作者: acworks

ひとつには、映画制作者が観客とコミュニケーションをとるための方法として、これからどんな物語を見るかを知らせるためです。また、これらの表現は日本文化に深く浸透しているため、日本映画全体を定義するのに役立っています。

しかし、なぜ日本映画にとってこのような比喩的な表現が重要なのでしょうか?

それは、一種の速記法として機能するため、映画制作者がゼロからすべてを説明しようとするよりも、より迅速かつ効果的に観客と感情的な共鳴を生み出すことができるからです。

さらに、これらの比喩表現は、日本映画を見て育った日本の観客に、親しみや懐かしさを感じさせるのに役立ちます。

それでは、映画の主題とは何か、なぜ日本映画で広く使われているのかを理解した上で、日本映画における最も古典的でジャンルを定義する主題のいくつかを見ていきましょう。

古典的な手法

比喩表現とは、作家が観客に親しみを持たせるために繰り返し使用するテーマやモチーフのことです。ここでは、日本映画の古典的な主題をいくつか取り上げ、その意味を読み解いてみましょう。

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もっともすぐれた古典的な比喩表現のひとつは「倒れる」シーンです。登場人物がスローモーションで地面に倒れ、カメラがその人の顔をズームアップするものです。

このシーンは、数え切れないほどの日本映画で、激しい感情の瞬間を描くために使われ、しばしば登場人物が死んだ後に使われます。安っぽくなることもありますが、常にリアルに感じられます。

©『L・DK』製作委員会/2014年

もうひとつの定番は、「雨の中の告白シーン」です。雨に濡れながら告白するシーンがよくあります。この手法は、数多くの恋愛映画や韓流ドラマに取り入れられています。

高まった恋愛感情が雨にさらされても激しく燃え上がるのを象徴しています。同時にふたりにこれから訪れる困難を暗示させています。

使い古されたように見えるかもしれないですが、それでもファンの間では人気がある手法です。

©かんばまゆこ・青山剛昌/小学館・「名探偵コナン 犯人の犯沢さん」製作委員会

「新たに現れた人物の一部のみを映す」という表現は、サスペンスを盛り上げるもので、視聴者に期待感を持たせるためによく使われます。登場人物が去った後、カメラはしばしば何もない空間に焦点を当て、隠れた脅威を示します。切迫した運命の感覚を作り出し、観客をハラハラさせるのに一役買っています。

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「登場人物が手紙を読む」という表現は、情報や裏話を伝えるために使われる古典的な装置です。手紙が主要なコミュニケーション手段であった歴史ドラマや時代劇でよく使われます。手紙はラブレターであったり、別れの手紙であったり、あるいは宣戦布告であったりします。観客を飽きさせないようにしながら、筋書きを展開するのに役立ちます。

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「一杯のラーメンと品格」という表現は、おかしな話に聞こえるかもしれませんが、貧困と人間性についての深刻なコメントです。貧困に苦しむ主人公が、食べ物などの基本的な欲求と自尊心のどちらかを選ばなければならない状況を描くためによく使われます。このシーンは心を痛めることもあり、常に視聴者の印象に残ります。

©NARUTO/岸本斉史 スコット/集英社・テレビ東京・ぴえろ

「指導者の死」という表現は、涙を誘うもので、指導者や教師が弟子のために自分の命を犠牲にするものです。この無私の行為は、主人公が使命を続けるための動機付けとなります。この表現は、サムライ映画や武道映画でよく使われるもので、師匠が自分の知識を授けてから去っていきます。

結論として、日本映画には、陳腐に見えるかもしれませんが、観客の心に響き続ける古典的な表現が数多くあります。これらの手法は、親しみやすさを生み、ストーリーテリングの助けとなっています。日本映画に限ったことではないかもしれませんが、それぞれの表現が日本の文化や感性に合わせてどのようにアレンジされているかを見るのはとても興味深いことです。

ジャンルを定義する比喩表現

日本映画のファンであれば、ある種のテーマや主題が何度も繰り返し登場することに気づくでしょう。ある時は予測可能で、ある時は心地よく、またある時はただただ奇抜です。

これらのテーマは、日本のストーリーテリングにおける文化的な試金石となり、観客に親近感や共有体験を与えてくれます。

このセクションでは、日本映画におけるジャンルを定義する比喩表現について詳しく見ていきます。

©「修羅の群れ」東映/1984年

ヤクザ映画というジャンルは、日本映画で最も人気があり、永続的なジャンルの一つである。ヤクザ、つまり日本のマフィアのメンバーの生活を中心に、忠誠心、名誉、裏切りというテーマを探求しています。ヤクザ映画で最もよく見られるのは、ストイックで陰気な主人公が、不可能な困難に直面しても常に名誉を維持しようと奮闘する姿です。また、ヤクザ映画というジャンルは、生々しい暴力や、ドス(刀)や銃が致命的な効果をもたらす様式化された戦闘シーンが特徴です。さらにその際の特徴的な叫び声などもよく注目されます。

©KADOKAWA

ホラー映画では、「死の白装束」という表現が、数え切れないほどの映画で使われてきた定番となっています。日本では古来から白装束は死人、またはこれから死ぬ人物が着るものです。ですから、白い着物やドレスを着た女性の幽霊や超自然的な存在が登場します。また多くの場合、長い黒髪で顔を覆っています。幽霊の目を見開いたような表情は、日本文化の参照であり、女性の霊や幽霊の描写によく見られます。この表現は、緊張を高め、不気味な雰囲気を作り出すために使われます。ジャパニーズホラーの他の一般的なテーマには、幽霊、復讐に燃える霊、お化け屋敷などがあります。

©「武士の一分」製作委員会/2006年

一方、サムライ映画というジャンルは、武士道という侍の生き方をテーマにしています。サムライ映画では、ストイックな武士たちが、名誉、忠誠、犠牲をテーマに、手の込んだ剣術を殺陣(たて)として繰り広げるのが一般的です。サムライ映画で最もよく見られるのは、主君に忠誠を誓い、主君を守るためなら己の命もいとわない家臣という役柄です。

またアクション自体は香港映画やハリウッド映画で使われる技術的用法も取り入れ、よりリアルで迫力のある殺陣となっています。

サムライ映画はしばしば名誉と伝統の世界を描き、ヤクザ映画のような混沌とした予測不可能な世界とは対照的と言えます。

©映画『悪人』製作委員会/2009年

最後に、「恋人たちの逃亡」という表現は、日本の恋愛映画の定番である。これは、一緒になるために障害を乗り越えなければならないカップルのことで、多くの場合、犯罪要素や社会的障壁が関係しています。このカップルはしばしば、法律や、二人を引き離そうとする何らかの勢力から逃げているのです。「実は血が繋がっていた」なんて衝撃の事実もそういった障害のひとつです。この型は、ロマンスとアクションのユニークなブレンドを可能にし、カップルはしばしば追手から逃れるために知恵と技術を使わなければなりません。

これらは、日本映画のジャンルを定義する手法のほんの一例に過ぎません。ストイックなサムライから復讐に燃えるゴーストまで、これらの比喩表現は観客に親近感や共有体験を与える試金石として機能する。予測可能なものであれ、心地よいものであれ、それらは日本のストーリーテリングに欠かせない要素なんですね。

比喩と政治

日本映画は、常に社会的、文化的、政治的な問題と密接に絡み合ってきました。実際、日本映画における多くの作品の主題は、政治的・社会的な風景の変化への対応を描いてきたものが多いです。例えば、多くのサムライ映画では「孤高のヒーロー」が描かれます。これは、日本のナショナリズムの個人主義的な精神を体現するもので、主君や武士道への揺るぎない忠誠を求めるものです。この図式は、アクション映画だけでなく、ドラマ、ロマンス、コメディといった他のジャンルにも見られます。

©シン・ゴジラ東宝/2016年
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東京湾・羽田沖。突如、東京湾アクアトンネルが巨大な轟音とともに大量の浸水に巻き込まれ、崩落する原因不明の事故が発生した。首相官邸では総理大臣以下、閣僚が参集されて緊急会議が開かれ、内閣官房副長官・矢口蘭堂は、海中に棲む巨大生物による可能性を...

日本映画におけるもうひとつの重要な型は「怪獣映画」であり、これは原爆被爆国である日本の歴史にルーツを持つ。『ゴジラ』や『モスラ』のような怪獣が東京で暴れる描写は、広島と長崎に投下された原爆の被害を表しています。このように、怪獣映画というジャンルは、核兵器の破壊力とそれが日本人に与えたトラウマのメタファーと見ることができます。環境保護は日本の大衆文化における重要な課題であり、これは世界的に人気のあるアニメや漫画に反映されています。これらの物語の多くは、環境を保護し、エネルギーを節約し、廃棄物を減らす必要性を中心に据えています。

日本のような社会では、人々はますます孤立し、分断し、過労やうつ病などの問題に苦しんでいます。アニメや漫画は、単なる逃避ではなく、重要な問題について人々を教育する手段としても登場しました。障害と差別を描くことは、日本映画が大きく前進した要因でもあります。

©『バベル』ギャガ・コミュニケーションズ/2007年
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メキシコの名匠、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が放つ衝撃のヒューマンドラマ。モロッコ、メキシコ、アメリカ、日本を舞台に、異なる事件から一つの真実が導かれていく。(c)2006 by Babel Productions, Inc....

例えば、聾唖(ろうあ)の人物表現は、俳優の役所広司や菊地凛子出演の映画『バベル』で菊地凛子扮する千恵子というキャラクターが、聾唖者としての人生を信憑性と感受性をもって描かれ、世界的に高い評価を受けています。

©『ミッドナイトスワン』キノフィルムズ/2020年
故郷を離れ、新宿のニューハーフショークラブで働くトランスジェンダーの凪沙(草彅剛)。ある日、育児放棄にあっていた親戚の娘・一果(服部樹咲)を養育費目当てに預かることになる。叔父だと思い訪ねてきた一果は凪沙の姿を見て戸惑い、子供嫌いの凪沙も一果への接し方に困惑するが、同居生活を送るうち、孤独だった二人は次第に、互いにとって唯一無二の存在になっていく。「母になりたい」という想いを抱き始めた凪沙は、一果のバレリーナとしての才能を知り、一果のために生きようとするが…。© 2020 Midnight Swan Film Partners | Prime Video
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最後に、ジェンダー表現とLGBTQコミュニティの政治もまた、日本映画の中心的存在です。日本映画の中には、女性差別やステレオタイプであるという批判を受けた作品もありますが、『ミッドナイトスワン』『カランコエの花』のようにLGBTQの表現に大きく貢献した作品もあります。

全体として、日本の社会的・政治的問題の文脈における日本の比喩表現の重要性は、強調しすぎることはなく控えめです。これらの比喩表現を研究することで、私たちは現代日本の精神と、日本が直面している課題を理解することができるのです。

比喩の転倒

ああ、常識を覆すことの喜び。見慣れたコンセプトを覆すことで、新鮮でエキサイティングなものになるのは、この上ない喜びだ。

日本映画には、それを実現する機会がたくさんあり、実に独創的な方法で物事を揺さぶってきました。まず、伝統的な男女の役割分担を解体することから始めましょう。

日本映画は、ジェンダー表現に関してかなり保守的であるという評判がありますが、現状に挑戦する画期的な映画がなかったわけではありません。

例えば、古典的な侍映画は、孤独でストイックな男の剣士が何十年にもわたってこのジャンルの定番でした。しかし、近年では、侍の物語に女性の視点を取り入れた映画が登場し、女性も男性と同じように勇敢で有能であることが示されています。

そして、アニメにおける「アンチメカ」運動があります。メカアニメ(巨大ロボットが登場するアニメ)は日本で何年も人気がありますが、どのジャンルでもそうですが、時々リフレッシュしないと陳腐化します。

「アンチメカ」運動は、メカアニメの比喩表現や慣例に批判的な目を向け、それを覆すものです。例えば、メカパイロットがPTSDに悩まされたり、自分の行動の道徳性に疑問を持ったりするような作品です。

『ガンヘッド』ではガンヘッドに乗り込み戦う主人公ブルックリンはコックピット恐怖症です。

予想を裏切るコメディは常に観客の心をつかみますが、日本映画にはそうした作品がたくさんあります。例えば、映画『カメラを止めるな!』。最初は普通のゾンビ映画ですが、途中からゾンビ映画の制作に関するメタ映画であることがわかります。これは、視聴者を飽きさせない、愉快で巧妙なひねりです。

第四の壁を破ることも、退屈な物語に新しい息吹を吹き込むテクニックのひとつです。映画『君の名は』では、主人公たちがランダムに体を入れ替えているように見えます。それだけでも風変わりな設定ですが、さらに一歩踏み込んで、主人公たちがそれぞれ身体やノートやケータイにメモを残していきます。これは、観客を巻き込み、入れ替わりに参加しているような気分にさせる巧妙な方法です。

UnsplashDe’Andre Bushが撮影した写真

最後に、ハリウッド化が日本映画に与える影響です。日本の映画産業がグローバル化するにつれて、海外の観客にアピールするような映画を作ろうとする動きがあります。それはそれでいいのですが、日本映画が持っていた独自の文化的アイデンティティが犠牲になっているのではないかという懸念もあります。日本映画がハリウッドの大作と見分けがつかなくなる未来が来るのだろうか。それは時間が解決してくれるでしょう。

また最近は商業主義に偏った映画作りでは、世界的に認められることは難しいと専門家や批評家やファンなどから批判の声があがっています。

ということで、日本映画の比喩表現の探求はこれにて終了です。

笑ったり、泣いたり、その意味を考えたり、とても楽しい旅でした。しかし、最も重要なことは、日本の映画製作者たちが、ユニークで魅力的な物語を語るために、どのように比喩表現を使ってきたかについて、より深い理解を得ることができたということです。もしかしたら、いつかハリウッドも注目するかもしれません。

おわりに

私たちは、日本映画の比喩についてたくさん調べてきました。古典的な「転落」のシーンから、ヤクザやサムライのジャンル、アニメや特撮作品における環境保護主義、日本のナショナリズムにおける孤独なヒーローなどです。

しかし、なぜ私たちが気にしなければならないのでしょうか?まず第一に、これらの比喩表現は世界的に認知されるようになり、文化的な記号として、その国や国民をよりよく理解するのに役立っています。さらに、これらの比喩表現が時間とともに進化し、破壊されてきたことは、日本映画の適応能力と革新性の証明でもあります。

UnsplashLucas Santosが撮影した写真

では、日本映画において比喩表現がこのままのか、それとも進化していくのか。一概には言えませんが、これらの比喩表現が世界の映画製作にどのような影響を与えたかを評価すると同時に、今後どのように変化していくかを期待できることは間違いありません。

また、この法則を理解することは、日本映画の鑑賞を深めることにもなり、パターンを認識し、個々の映画がいかに予想を裏切るかを評価することができます。今度日本映画を見るときは、これらの表現に目を向けてみてください。

最後まで読んでいただきありがとうございます。今回の記事は以上となります。

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