1994年の公開以来、時代を超えて愛され続ける映画『レオン』。殺し屋と少女の「凶暴な純愛」を描いた本作は、リュック・ベッソン監督、ジャン・レノ、ナタリー・ポートマンの名を世界に刻みつけました。しかし、この名作が実は「別の映画のつなぎ」として、わずか2日で書き上げられた脚本から生まれたことをご存知でしょうか?
本記事では、ファンから高く評価される「電八ぶろぐ」の視点を交え、完全版での追加シーンの意味や、大人になったナタリー・ポートマンが明かした複雑な心境、そしてラストシーンの「植木鉢」に込められた真意を深掘りします。
※注意:この記事にはネタバレが多分に含まれています。作品をご覧になっていない方にはオススメできません。
作品概要
1994年公開(日本公開は1995年)のリュック・ベッソン監督作品。
ジャン・レノ主演で映画「ニキータ」のスピンオフ的作品。リュック・ベッソン監督のアクション作品にサラッと登場する「掃除屋」と呼ばれる殺し屋をメインにした物語。
世界的に大ヒットしてナタリー・ポートマンの出世作となりました。
ざっくりあらすじ
映画『レオン』は、ニューヨークの片隅で孤独に生きるイタリア系移民の殺し屋レオンと、家族を惨殺された12歳の少女マチルダの交流と復讐を描いた物語です。
1. 孤独な殺し屋と絶望した少女の出会い

凄腕の「掃除屋(殺し屋)」であるレオンは、マフィアのボスであるトニーからの依頼を完璧に遂行しながら、1日2リットルの牛乳を欠かさず飲み、鉢植えの観葉植物を唯一の友としてストイックに暮らしていました。ある日、隣の部屋に住む少女マチルダの父親が預かっていた麻薬を横領したことで、悪徳麻薬捜査官スタンスフィールドらによってマチルダの家族が皆殺しにされてしまいます。買い物から帰宅して異変を察知したマチルダは、とっさにレオンに助けを求め、彼は迷いながらも彼女を自室へ招き入れて命を救いました。
2. 奇妙な共同生活と復讐への誓い
最愛の弟を殺されたマチルダは、レオンが殺し屋であることを知り、**「弟の復讐のために殺しの技術を教えてほしい」と懇願します。当初は拒絶していたレオンでしたが、マチルダの並々ならぬ覚悟に触れ、彼女を「弟子」として受け入れることになりました。こうして始まった共同生活の中で、マチルダはレオンに読み書きを教え、レオンは彼女に戦闘の技術を伝授していきます。年齢も境遇も異なる二人の間には、次第に友情や親愛、そして「凶暴な純愛」**とも呼ばれる名前のない深い絆が芽生えていきました。
3. スタンスフィールドとの決戦
ある時、マチルダはスタンスフィールドが麻薬取締局(DEA)の捜査官であることを突き止め、復讐のために単身で局に乗り込みますが、逆にとらわれてしまいます。彼女の置き手紙を読んだレオンはすぐに局へ急行し、鮮やかな手際でマチルダを救出しました。しかし、これに激怒したスタンスフィールドは市警の特殊部隊を総動員し、レオンたちが潜伏するアパートを包囲、激しい銃撃戦へと発展します。
4. 衝撃の結末と「根」を下ろした魂
多勢に無勢の状況下、レオンは壁に穴を開けてマチルダだけを逃がし、「トニーの店で落ち合おう」と再会を約束します。レオン自身も負傷した特殊部隊員に扮して脱出を試みますが、出口の光が見えた瞬間に背後からスタンスフィールドの銃弾に倒れました。絶命の直前、レオンは「マチルダからの贈り物だ」と言ってスタンスフィールドに手榴弾の安全ピンを手渡し、彼を道連れに爆死します。
生き残ったマチルダはトニーのもとを訪れますが、殺し屋になることを断られ、元の学校の寄宿舎へと戻ります。彼女はレオンの形見である観葉植物を学校の庭に植え、**「もう安心だよ、レオン」**と語りかけました。それは、地面に根を張れない「根無し草」のようだったレオンの魂が、ようやく安息の地を見つけた瞬間でもありました。
伝説の始まり:『フィフス・エレメント』の「つなぎ」から生まれた奇跡
映画ファンや批評家の間で、1994年公開の『レオン』はリュック・ベッソン監督の最高傑作の一つとして不動の地位を築いています。しかし、この作品の誕生背景を紐解くと、そこには計算し尽くされた戦略ではなく、映画の神様が仕組んだかのような「偶然」と「妥協」から始まった驚くべき物語があります。
本命の「空き時間」を埋めるための即興劇
当時、リュック・ベッソンが全精力を傾けていたのは、のちにSF大作として結実する『フィフス・エレメント』でした。しかし、主演のブルース・ウィリスのスケジュール調整が必要となり、製作に数ヶ月の空白期間が生じてしまいます。この「予期せぬ空き時間」を無駄にせず、かつ次作のための資金を確保するという極めて実務的な理由から、『レオン』のプロジェクトは始動しました。
驚くべきは、その脚本執筆のスピードです。ベッソンは、自身の過去作『ニキータ』に登場した強烈なキャラクター、掃除屋のヴィクトル(ジャン・レノ)の設定を再利用し、わずか2日間で『レオン』の脚本を書き上げました。本来であれば数年をかけることもある映画の設計図が、わずか48時間で完成した事実は、現在のAIによる生成スピードにも匹敵する驚異的な熱量を感じさせます。
わずか3ヶ月の撮影が生んだ「生々しいリアリティ」
製作費稼ぎという、一見すると「とりあえず」の動機で始まった本作でしたが、現場に充満していたエネルギーは本物でした。撮影期間はわずか90日。この限られた時間と予算という制約が、かえって過剰な装飾を削ぎ落とし、キャラクターの感情をダイレクトに伝える「純度の高い」演出へと繋がりました。
ニューヨークの乾いた街並みを背景に、殺し屋と少女の孤独が共鳴する物語は、ベッソンの頭の中にあった「ストック」が一気に溢れ出した結果だったのです。もし『フィフス・エレメント』が予定通りに進んでいれば、私たちはジャン・レノとナタリー・ポートマンという伝説的なデュオに出会うことはなかったかもしれません。
妥協から生まれた「永遠の純愛」
「とりあえず」で書かれた脚本が、なぜ30年経っても語り継がれる名作となったのか。それは、ベッソン監督の中にあった「殺し屋の孤独」というテーマが、突貫工事のような製作環境の中で、余計なフィルターを通さずに剥き出しのままフィルムに焼き付けられたからに他なりません。
皮肉にも、本命を待つための「寄り道」が、映画史に燦然と輝く「黄金の道」となったのです。この奇跡的な背景を知ることで、レオンがマチルダに注ぐ不器用な愛は、より一層の切なさを伴って私たちの胸に迫ります。
とりあえずが世界的大ヒット
この映画は思いもよらず世界的に大ヒットし、「名作」と言われるほどになりました。
リュック・ベッソン監督はそこまでヒットすることは全く予想していませんでした。
2日間で書き上げた脚本に、すべての撮影をたったの3か月で終えての公開と非常に短期間で製作された、実は「とりあえず」の作品だったとは誰も信じませんでした。
かくして大ヒットのおかげで十分な資金が集まり、『フィフス・エレメント』の撮影を開始することができました。
孤独と狂気が交錯する、三人の強烈なキャラクター分析
映画『レオン』が、単なるアクション映画を超えて「文学的」な評価を得ている最大の理由は、登場人物たちの多層的なキャラクター造形にあります。ここでは、レオン、マチルダ、そしてスタンスフィールドという、映画史に刻まれた三人の魂を深掘りします。
殺し屋レオン:ストイックなプロフェッショナリズムと「子供の心」

ジャン・レノが演じたレオンは、これまでの殺し屋のイメージを覆しました。
- 「掃除屋」としての矜持: 彼は自分の仕事を「殺し」ではなく「掃除」と呼び、「女子供は殺さない」という厳格なプロット(掟)を守っています。この倫理性こそが、彼の凶暴性の裏側にある「高潔さ」を際立たせています。
- 牛乳と腹筋が象徴する「無垢」: 殺し屋でありながら酒を飲まず、牛乳を愛飲し、毎日欠かさず腹筋を行い、字が読めない。これらは、彼が「大人になりきれなかった子供」であることを示唆しています。ジャン・レノはあえて彼を「少し知的に幼い男」として演じることで、12歳のマチルダとの関係を単なる男女の情愛ではなく、「孤独な魂同士の対等な共鳴」へと昇華させました。
マチルダ:2000人から選ばれた「早熟と無邪気」の共存

ナタリー・ポートマンのデビュー作となったマチルダは、2000人規模のオーディションから発掘されました。
- 天才的な演技のスイッチ: リュック・ベッソンは最初、彼女が幼すぎると判断しましたが、再オーディションで「弟を殺された怒り」を見事に演じた彼女に圧倒され、即決したといいます。
- マチルダの武器は「知性」: 彼女は家庭環境から逃れるため、早く大人にならざるを得なかった少女です。タバコを吸い、計算高く立ち回り、レオンを誘惑するような仕草を見せる一方で、弟の形見の漫画を愛でる。この「早熟な知性」と「隠しきれない幼さ」の危ういバランスこそが、観客を惹きつけて止まない魅力の正体です。
この全編を通して感じられる背徳感の元になっているのがマチルダという12歳の美少女です。
- 12歳の美少女と殺し屋との組み合わせ
- 不幸な生い立ちの美少女
- 二人の出会い
- 少女は復讐を誓う
- 殺しの練習をするマチルダ
- 殺し屋と仲良くなるマチルダ
- 殺し屋が少女に愛の告白
などなど、マチルダが「12歳の美少女」であるからこそ背徳感を感じる部分が大きくなります。
もしマチルダが20歳を超える大人であったならば、この背徳感はほとんど感じない作品になっていたでしょう。
この背徳感が作品としての格をあげる要因になっているのでないかと思います。
スタンスフィールド:アドリブから生まれた「クラシックを愛する狂気」

ゲイリー・オールドマンが演じたスタンスフィールドは、映画界でも屈指の「悪役」として語り継がれています。
麻薬取締局の刑事にして、麻薬密売組織を牛耳るスタンスフィールド役のゲイリー・オールドマンがキレまくります。
- 予測不能な恐怖: 麻薬取締局の捜査官でありながら、自身も薬物を常用するジャンキー。ベートーヴェンやモーツァルトを聴きながら虐殺を行うその姿は、高尚な芸術と卑劣な暴力が同居する「人間の矛盾」を体現しています。
- アドリブの力: 有名な叫び声「Everyone!」や、マチルダの父親の匂いを嗅ぐシーンはゲイリーの即興演技。周囲の役者の「本気の困惑」をそのまま映像に閉じ込めることで、計算では出せない圧倒的な「狂気の密度」を作品に与えました。
ぶっ飛んだ演技に人間の怖さを生々しく感じさせられます。
実はほとんどがアドリブだったそうで、周囲の俳優たちの本物のとまどった表情が使われています。
キャラクター造形の構造的理解

これらのキャラクターは単なる「登場人物」ではなく、「孤独」「救済」「狂気」というテーマを象徴するユニットとして認識されます。
- レオン = 身体的強者でありながら、精神的弱者。
- マチルダ = 身体的弱者でありながら、精神的強者。
- スタンスフィールド = 法の執行者でありながら、秩序の破壊者。
この逆説的な構造こそが、物語に深い緊張感を生み出しているのです。
結論:なぜ彼らでなければならなかったのか
この三人のバランスは絶妙です。レオンの「静」、マチルダの「動」、そしてスタンスフィールドの「狂」。この三つのベクトルが一点に交わることで、単なるエンターテインメントに留まらない、人間の深淵に触れる物語が完成しました。配役の妙が、脚本以上の深みを映画にもたらした好例と言えるでしょう。
泣いて喜んだジャン・レノ

監督が気に入った同じ俳優を何度も自分の映画に起用することはよくあることですが、今作の主人公レオン役についてジャン・レノは「今回は起用されることはないだろう」と思っていました。
なぜならロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、メル・ギブソンなどとんでもないビッグネームが並んでいたからです。
しかし、ある日監督との夕食の時に「私からのプレゼントだよ、レオン!」と「レオン」の脚本を渡されて、ジャン・レノは涙を流して感激したそうです。
【考察】なぜ『レオン』は「背徳感」を伴う名作なのか
映画『レオン』が公開から30年以上経った今なお語り継がれる理由は、単なる「殺し屋アクション」では終わらない危うさと、美しさを同時に抱えているからです。
本作を観た多くの人が言葉にしづらい感情を抱くのは、レオンとマチルダの関係性が、友情・家族愛・恋愛、そのどれにも完全には分類できないからでしょう。
そして、その“曖昧さ”こそが、『レオン』最大の魅力なのです。
「孤独」という共通言語で結ばれた二人
レオンは、一流の殺し屋でありながら精神的には極めて未成熟な人物です。牛乳を飲み、規則正しく生活し、植物を大事に育てる姿は、まるで外の世界を知らない少年のようでもあります。
一方、マチルダは12歳という年齢でありながら、家庭内暴力や愛情不足によって、すでに“大人の絶望”を知っている少女です。
つまり二人は、
- 大人なのに子供のような男
- 子供なのに大人のような少女
という、互いに欠けた部分を持つ存在なのです。
だからこそ、二人は社会の常識ではなく、「孤独」という感情によって強く惹かれ合います。
ここが『レオン』の重要なポイントです。
この映画は、恋愛を描いているようでいて、実際には「居場所を失った者同士の共鳴」を描いています。
観客が感じる“危うさ”の正体
しかし、『レオン』が単純な感動作として消費されない理由は、その関係性に常に“危険な香り”が漂っているからです。
マチルダはレオンに対して明確に恋愛感情を向けます。
香水をつけ、大人の女性を真似し、「愛してる」と口にする。
観客はその姿に、無邪気さと危険性を同時に感じることになります。
しかもレオンは、それを完全には拒絶しません。
もちろん映画は最終的にプラトニックな距離感を守っています。しかし、その「一線を越えそうで越えない」絶妙な緊張感が、作品全体に独特の空気を生み出しているのです。
もしマチルダが20代の女性だったなら、『レオン』はここまで伝説にはならなかったでしょう。
単なる「孤独な男女の恋愛映画」で終わっていた可能性が高いからです。
12歳の少女だからこそ、観客は「これは美しいのか、それとも危険なのか」という葛藤を抱え続けることになります。
この“判断不能な感情”こそ、『レオン』が観る者の記憶に深く刻み込まれる理由なのです。
初期脚本に存在した“さらに危険な設定”
実は、リュック・ベッソン監督の初期脚本では、現在よりもさらに踏み込んだ描写が存在していたと言われています。
マチルダとレオンの関係は、より直接的で肉体的なニュアンスを含んでおり、ナタリー・ポートマンの両親が強く反対したことで変更されたとされています。
結果として完成版では、「恋愛未満」の距離感へ調整されました。
しかし興味深いのは、この修正によって作品の芸術性がむしろ高まった点です。
明確に恋愛関係として描いてしまえば、作品は単なるスキャンダラスな映画になっていたかもしれません。
けれど『レオン』は、感情を断定しなかった。
だからこそ観客は、
「これは父性愛なのか」
「恋愛なのか」
「依存なのか」
「救済なのか」
を、自分自身で考え続けることになるのです。
『レオン』は“許されない感情”を描いた映画である
『レオン』は、観客に安心を与える映画ではありません。
むしろ、「人は綺麗事だけでは救われない」という現実を突きつけてきます。
社会的には間違っている。
でも感情としては理解できてしまう。
この矛盾こそが、本作の核心です。
だから『レオン』は、単なるアクション映画でも、単なる恋愛映画でもなく、“孤独な魂の避難所”を描いた作品として、今なお世界中で愛され続けているのです。
エンディング解説|ラストの「植木鉢」が象徴する本当の意味とは?

映画『レオン』のラストシーンは、映画史に残る名エンディングとして今なお高く評価されています。
スタンスフィールドとの壮絶な戦いの末、命を落としたレオン。
その後、マチルダはレオンが大切にしていた観葉植物を学校の庭へ植えます。
静かな音楽の中、土へ根を下ろす植物。
一見するとシンプルな場面ですが、このシーンには『レオン』という作品全体を締めくくる重要なメッセージが込められています。
結論から言えば、あの「植木鉢」は、レオン自身の人生そのものを象徴しています。
レオンにとって植物は「自分自身」だった

劇中でレオンは、いつも観葉植物を持ち歩いています。
ホテルでも、アパートでも、常に一緒。
そして彼はマチルダに対し、印象的な言葉を口にします。
「こいつは俺と同じだ。根がない」
このセリフは、『レオン』という映画を理解する上で極めて重要です。
レオンは殺し屋として生きる以上、一か所に留まることができません。
名前を変え、街を移動し、人との深い関係を避けながら生きてきた。
つまり彼は、“社会に存在しながら、どこにも属していない人間”なのです。
観葉植物は、その「根無し草」の人生を映し出した存在でした。
鉢植えの植物は、土に根を張ることができません。
生きてはいる。
しかし、本当の意味で“地面につながってはいない”。
それはまさに、孤独な殺し屋レオンそのものだったのです。
マチルダが植物を植える行為の意味
ラストでマチルダは、その植物を学校の庭へ植え替えます。
この行為には、大きく分けて二つの意味があります。
まず一つ目は、レオンに「安らぎの場所」を与えることです。
レオンは生涯、自分の居場所を持てませんでした。
愛する人を失い、裏社会でしか生きられず、常に死と隣り合わせだった男。
しかし最後にマチルダと出会ったことで、彼は初めて「誰かのために生きたい」と願うようになります。
そして彼は、自分の命と引き換えにマチルダを守った。
つまり、あの植物が土に植えられる瞬間は、“居場所を持てなかった男が、ようやく地面に帰る瞬間”でもあるのです。
殺し屋レオンは死んだ。
しかし、一人の人間としては、ようやく救われた。
だからあのラストは、悲劇でありながら、どこか穏やかな余韻を残しているのです。
マチルダ自身の「再生」の物語
もう一つ重要なのは、このシーンがマチルダ自身の成長を示している点です。
映画前半のマチルダは、「復讐」だけを生きる目的にしていました。
家族を殺され、怒りと孤独だけで生きていた少女です。
しかしレオンとの生活を通して、彼女は少しずつ変化していきます。
誰かと食事をすること。
笑うこと。
守られること。
そして、誰かを愛すること。
それまで知らなかった“普通の感情”を知っていくのです。
だからこそラストで彼女は、復讐ではなく「生きる」ことを選びます。
植物を植える行為は、単なる埋葬ではありません。
それは、
「私はここで生きていく」
という決意表明でもあるのです。
『Shape of My Heart』がラストを神話に変えた
そして、この名シーンを永遠のものにしたのが、エンディングで流れるShape of My Heartです。
切なさと温かさが同居するメロディは、『レオン』という作品の本質そのものを音楽として表現しています。
暴力と死に満ちた物語なのに、最後に残るのは不思議な静けさ。
それは、レオンがマチルダの未来の中で“生き続ける存在”になったからでしょう。
だから『レオン』のラストシーンは、単なる悲しい結末ではありません。
孤独だった二人が、ほんの短い時間だけ「家族」になれた物語。
そして植木鉢は、その儚くも確かだった絆を、静かに土の中へ根付かせるための象徴だったのです。
『完全版』の意義とナタリー・ポートマンの葛藤|なぜ『レオン』は今も議論され続けるのか
現在、多くのファンに愛されている映画『レオン』には、「劇場公開版」と「完全版(インターナショナル版)」の二種類が存在します。
両者の大きな違いは、約20分以上の追加シーンの有無です。
一見すると単なる“未公開シーン追加版”のように思えますが、『レオン 完全版』は、作品の印象そのものを変えてしまうほど重要な意味を持っています。
なぜなら、完全版ではレオンとマチルダの関係性が、より親密に、より危うく描かれているからです。
そしてその描写は、現代において再評価と同時に、大きな議論も呼び続けています。
『完全版』で追加された重要シーンとは?

『レオン 完全版』では、主にマチルダとレオンの日常シーンが追加されています。
特に印象的なのは、マチルダが「殺し屋の訓練」を受ける場面です。
銃の扱い方を学び、標的を観察し、二人で仕事のような行動を共にする。
劇場公開版ではやや唐突だった「二人の絆」が、完全版ではより丁寧に積み上げられているのです。
また、レストランでの会話や、ホテルでのやり取りなど、マチルダの“恋愛感情”を強く感じさせるシーンも追加されています。
ここで重要なのは、完全版によって『レオン』が単なるアクション映画ではなく、「感情の境界線」を描く作品としてより鮮明になった点です。
つまり完全版は、観客に対して、
「この関係をあなたはどう見るのか?」
という問いを、さらに強く突きつけてくるバージョンなのです。
なぜアメリカ公開版ではカットされたのか?

実は、これらの追加シーンの多くは、アメリカ公開時に問題視されました。
理由は非常に明確です。
「12歳の少女と中年男性の関係が性的に見える」
という批判が集中したからです。
1990年代当時でも、このテーマは極めてセンシティブでした。
特にマチルダがレオンへ向ける感情表現は、“子供の無邪気な憧れ”として片付けるには危うすぎる側面を持っていたのです。
その結果、アメリカではテスト上映を経て複数のシーンが削除されました。
逆にヨーロッパ圏では、芸術作品として比較的受け入れられた背景があります。
ここには、アメリカとヨーロッパで異なる「表現倫理」の文化差も存在していました。
つまり『レオン』完全版は、映画そのものだけでなく、「どこまでが芸術表現として許されるのか」という問題まで含めて語られる作品なのです。
大人になったナタリー・ポートマンが語った本音

そして現在、『レオン』を語る上で避けて通れないのが、Natalie Portman本人による告白です。
ナタリー・ポートマンは後年のインタビューで、『レオン』出演後、自分が世間から“性的な存在”として見られるようになったことへの恐怖を語っています。
当時彼女はまだ12歳。
しかし映画の成功と同時に、過激なファンレターや性的な視線にさらされるようになったと明かしています。
この発言は、多くの映画ファンに衝撃を与えました。
なぜなら『レオン』は長年、「純愛映画」として語られることも多かったからです。
しかしナタリー本人の視点から見ると、その裏には子役として背負わされた重圧や危険性が存在していた。
これは非常に重要な論点です。
作品としての芸術性と、未成年俳優を取り巻く現実。
その両方を分けて考える必要があるからです。
それでも『レオン』が名作であり続ける理由

では、『レオン』は問題作なのでしょうか。
答えは単純ではありません。
確かに現代の価値観で見ると、危うい描写があるのは事実です。
しかし同時に、『レオン』が30年以上愛され続けている理由もまた、本物です。
この映画は、「愛」と「孤独」の境界線を極限まで掘り下げた作品でした。
だからこそ観客は、不快感と感動を同時に味わう。
美しいのに危険。
優しいのに暴力的。
その矛盾が、『レオン』を単なる娯楽映画では終わらせなかったのです。
そして今、『レオン』は単に「懐かしの名作」としてではなく、
- 映画表現の自由
- 未成年俳優の保護
- 観客の倫理観
- 時代による価値観の変化
まで含めて語られる作品になりました。
それこそが、『レオン』という映画が今なお世界中で議論され、愛され、そして忘れられない理由なのです。
FAQ|映画『レオン』の疑問を徹底解説 牛乳の意味から続編幻の企画まで
映画『レオン』には、一度観ただけでは気づきにくい象徴表現や、長年ファンの間で語られてきた裏設定が数多く存在します。
特に、
- 「なぜレオンは牛乳ばかり飲むのか?」
- 「続編は本当に存在したのか?」
- 「完全版はどちらを観るべきなのか?」
といった疑問は、公開から30年以上経った現在でも検索され続けています。
ここでは、『レオン』をより深く楽しむために、特に多い質問をわかりやすく解説します。
Q1. レオンが牛乳ばかり飲んでいる理由は?

『レオン』を観た人の多くが印象に残るのが、レオンの“異常なまでの牛乳愛”です。
食事のたびに牛乳を飲み、カフェでも牛乳を注文する姿は、もはやキャラクターアイコンの一部になっています。
結論から言えば、牛乳には「レオンの純粋性」を象徴する意味があります。
レオンは職業こそ冷酷な殺し屋ですが、精神的には非常に未成熟な人物として描かれています。
酒を飲んで快楽に溺れるわけでもなく、派手な生活を送るわけでもない。
むしろ生活は極端に質素で、規則正しい。
牛乳は、そんな彼の“子供っぽさ”や“無垢さ”を表現する小道具なのです。
また、リュック・ベッソン監督は、レオンを「感情の成長が止まった男」として設計していたとも言われています。
つまり牛乳は、殺し屋でありながら少年のような内面を持つレオンの、視覚的な象徴だったのです。
これは代々、殺し屋の血族として生きてきたレオンの身体能力や集中力などを高い水準で維持するための生活習慣なんですが、「殺す」のに健康が第一というなんだか皮肉が効いた習慣です。
「ハイサワー」のグラスが登場するのもなんだかニヤリとしてしまいます。
Q2. レオンとマチルダは恋愛関係だったの?

これは『レオン』最大の議論ポイントです。
結論として、映画は明確な答えを提示していません。
マチルダはレオンに対して恋愛感情を抱いています。
「愛してる」と伝え、大人の女性のように振る舞おうとする場面もあります。
しかしレオン側は、父性愛、友情、保護欲、孤独の共有など、複数の感情が混ざり合った描写になっています。
ここが『レオン』という映画の特殊な部分です。
普通の恋愛映画なら、関係性に“答え”が与えられます。
しかし本作は、あえて曖昧さを残した。
だから観客によって解釈が大きく変わるのです。
ある人は「疑似親子の物語」と受け取り、別の人は「許されない純愛」と感じる。
この“感情の余白”こそが、『レオン』を長年語り継がれる作品にした最大の要因と言えるでしょう。
Q3. 『レオン』に続編は存在する?

実は、続編企画そのものは存在していました。
リュック・ベッソン監督は、成長したマチルダを主人公にした続編構想を持っていたと言われています。
タイトル候補として有名なのが『Mathilda』です。
しかし、制作会社との権利問題などが影響し、正式な映画化には至りませんでした。
その代わり、この企画のエッセンスは後の映画へ受け継がれます。
それが、Colombianaです。
Zoe Saldaña演じる女性暗殺者の設定には、“大人になったマチルダ”的な面影が色濃く残っています。
そのため映画ファンの間では、『コロンビアーナ』は「精神的な『レオン』続編」とも呼ばれているのです。

Q4. 劇場公開版と完全版、どちらを観るべき?
初めて観るなら、多くの映画ファンは「完全版」を推奨しています。
理由はシンプルで、レオンとマチルダの関係性がより丁寧に描かれているからです。
特に、
- 二人の日常
- 殺し屋としての訓練
- マチルダの感情変化
などが補強されており、物語への没入感が大きく増しています。
ただし注意点もあります。
完全版は、その分だけ“危うさ”も強調されています。
現在の倫理観では賛否が分かれる描写も含まれているため、人によっては劇場版の方がバランスよく感じる場合もあるでしょう。
つまり、
- テンポ重視なら劇場版
- 人物描写重視なら完全版
という選び方がおすすめです。
Q5. なぜ『レオン』は今でも人気なのか?
最大の理由は、「感情が整理できない映画」だからです。
観終わった後、
「泣けた」
「怖かった」
「美しかった」
「危険だった」
という複数の感情が同時に残る。
普通の映画は、観客に“わかりやすい答え”を与えます。
しかし『レオン』は違う。
愛なのか依存なのか。
救済なのか破滅なのか。
その答えを観客へ委ねているのです。
だからこそ、『レオン』は30年以上経った今でも、新しい観客を生み続けています。
そしてこれから先も、“簡単には説明できない感情”を描いた映画として、語り継がれていくのでしょう。
おまけ

日本で公開されたあと、いわゆる「ちょいわるおやじ」が流行ります。
これは映画と同名の雑誌「LEON」が提唱したちょっと不良な中年男性を表しています。
イタリアンファッションを中心にした異性に受けるファッションとして紹介されています。
◆LEONレオンオフィシャルWebサイト



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